たかだかつまづいてバランスを崩し腕をついただけなのに、骨折するなんて……。
まぁいい、どうせ私は年寄りだ。身体のあちこちにガタがきてるんだし、脚を骨折していたら寝たきり老人にもなりかねない。これで済んだだけでも幸いと思わなきゃ。

1ヶ月近い入院生活を終え、久しぶりに自宅に戻ると……なにもかも無くなっていた。
ソファにベッド、パソコンに電化製品ひと揃い、美術品とまではいかないがそれなりに評価されている絵画や彫像、一番部屋を占めていた本、とにかく食器から歯ブラシに至るまでもののみごとに何も残っていなかった。
(泥棒?、だが、ここまで見事にスッカラカンにしていくか?)
「退院が早まったんなら電話すりゃあ良かったのに。」
部屋の中で呆れ気味に立ち尽くす私に声をかけたのは「お友達のお兄さん」渋谷勝利。
ボブの仕事を引き継いだ現地球の魔王。入院中、唯一面会を許可した人物。
「退院したら自宅まで送ってやる」と言われたが早めに退院許可が出たので、連絡もせずタクシーを捕まえてさっさと帰ってきたのだった。

*****

結局、渋谷が眞魔国に生活の場を移すことにしたとき、私は自分の育った世界を選んだ。
地球と眞魔国とを行き来するうちに僅かだった時間のズレが徐々に大きくなり、それにつれて渋谷の成長時間がゆっくりとなり、自分の力でスタツアできるようになったからと言っても地球での時間のズレを考慮すると学生ならともかく正規に職を得ることは難しく、それらをひっくるめて近所の目が厳しくなり、実家で生活することが難しくなった。
しばらくはボブの力を借りて点々と居を移していたが、それは渋谷にとっても渋谷家にとっても負担を強いるだけで根本的な解決にはならなかった。

渋谷と違い、私は「地球での時間を生きる」人間だった。
私の役割は異世界を脅かす問題を解決するであろう渋谷を助けることであって、ある程度安定した平和が維持され、渋谷が魔王として自立すればそれで私の役目は終了したと言える。
それに『村田健』としての人生を歩んでもみたかった。
最初はなかなか納得しなかった渋谷も、お互いの時間の進み方が違うことを認識するにつれ反対することを止めた。

最後に異世界に行ったのは……そう、50年近く昔だ。
元々眞魔国での私の地位は有名無位であり、できるだけ公な場を避けるようにしていたため『猊下と呼ばれる古の大賢者の魂を持つ者』に近しい者は限られていた。だから、渋谷の側近達などごく一部の者にだけ別れの挨拶を告げてきた。
ヨザックにはただ「僕はもうこちらに来ない」とだけ。
そう聞いても彼はいつものように髪を撫で、軽く口づけをくれただけで……何も言わなかった。
理解してくれていたと思う、彼は私が『村田健』でいることを望んでいたから。

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