「おはよう。あれっ、今日はお休みじゃなかったの?」
「グリエさんがいたらそうしますが、ダカスコスと警備兵では猊下のお世話に不安がありますので、昼間だけお休みをいただきます」
「そんな、大丈夫だよ。奥さんに会いに行けば?」
「実は、……来るんです」
「あっ、見学に?」
「ええ、家族揃って。なにしろ城内に入るのは初めてなので、両親は寝れなかったと思いますね」
「ぜひ紹介してよ! いつも話ばかりでどんな人かって思ってたんだ」
「猊下、それは無理ですよ。奥までの許可はいただいていませんから」
「なんだぁ、残念だな」
朝食後、講義を受ける猊下を見送ると通用門まで家族を迎えに出かけた。しばらく待っていると我が家の馬車が見え、城壁脇の詰め所前で両親と妻と妹が降りてきた。思った通り、昼間にしてはややフォーマル過ぎる格好をしているが、それでも貴族の皆様に比べれば落ち着いた服装と言えるだろう。
「寝足りない顔ですね、お父さん」
「当たり前だ。お前はぐっすり眠れたようだな」
「ええ。きれいですよ、お母さん」
「ありがとう。まだ城門だというのに緊張してしまって」
「お前は……いつも通りだね」
「そうよ、兄さま」
妻は相変わらず穏やかで、こちらまで笑顔にさせるような微笑と美しい紫の瞳で私を見つめている。
久々に妻の柔らかな唇に触れ、家に帰らないと決めたことを初めて後悔した。
「さっ、行きましょう」
朝の慌ただしさは収まっていたが、それでも忙しそうな人々や警備のものたちと行き交いながら、血盟城の正面へと向かった。
私たちがくぐることのない重厚な門、広々とした車寄せ、何本もの列柱が支えるエントランス、華やかな装飾の窓と壁を見上げ、形よく刈り込まれた植え込みと道の両端を彩る草花を楽しみながら棟の端まで来ると、棟と棟の間を抜けて中庭に出る。建てられた年代ごとに手法の異なる4つの棟とその間を繋ぐ渡り廊下が中庭を区切り、その一つ一つが趣向を凝らした庭園となっている。
初めて見るものすべてに歓声を上げていたが、なにもかもが驚きの連続だとその感覚は麻痺してくるものだ。
「さて、そろそろ食事にしましょうか」
皆様の食事の支度で出払った東棟地階の食堂はいつもより人が少なく、ゆっくり説明をしながら『定食』を選んで外光の差し込むテーブルについた。
「いつもこんなにメニューが豊富なのですか?」、「まぁ、おいしい!」、「ほほぅ、これは久しぶりな味だ。カヴァルケード産……だな」、わが家で寛いでいるかのような雰囲気でいた私たちは広い空間にざわめきが広がったのに気がつくのが遅れた。
「兄さま、あちらに……」、視線の先に振り返ると『定食』を乗せたトレイを持った双黒のお二人がキョロキョロと辺りを眺めている!!
「あっ、いたいた!!」、陛下の声が先に、その後に三人の足音が続き、「ここ、いい?」と。気さくそのままに、起立し唖然としている私たちにニッコリと笑いかけるお二人といささか仏頂面なヴォルフラム閣下。
「どうぞ、おかけください」
「ありがとう。ねぇ、みなさんも座ってよ」
「悪いね、少尉。渋谷に言ったら、こうなっちゃったんだ」、そう言った猊下の表情にいささかも悪びれたところは見られない。むしろ、思った通りの結果になって上機嫌だ。
密かなため息をつきつつ「こちらは私の両親と妻と妹でございます」と紹介したが、およそ考えられない事態に動揺しまくっている父は腰掛けたもののテーブルから顔を上げられず、母と妻と妹は普段からは想像もできないほど優雅な笑顔を見せている。こういう予想外の出来事に強いのはやはり女性だ。
「少尉は今日、A定にしたんだ」、「A定かぁ。それにしようか、これにしようか迷ったんだよな」、「C定だって美味いぞ」、ここが城下のレストランなら、甥たちか近所の子供たちを連れてきたかのようだ。
食事を終えてひとしきりおしゃべりを楽しんだお二人は「それじゃゆっくり楽しんでってね」「またお会いしましょう」と席を立ち、見つめる者たちに声をかけながら食堂を後にした。
「お可愛らしい方々ね」、「もう少し若かったら自分を売り込むところだわ」、「ああっ、これは心臓に悪い」、私としては口々もらされる感想に苦笑するしかない。
その後、のんびりと室内の見学をした家族はティタイム頃、通用門から馬車に乗って帰宅の途についた。本当ならもう少しいてもいいのだが、ゆっくりお茶が飲みたいからと断わられた。まあ、仕方ない。
父が持ってきた資料をざっと読み、部屋を片づけ、茶葉の残量を確認し、執務の終わる頃を見計らって陛下の執務室へと向かった。
ドアを開けると退屈そうに壁際に立っているダカスコスに「ご苦労様、替わるよ」と声をかけたところで、「あれっ、早いね。皆さんは?」と陛下がお尋ねになった。
「はい、先ほど帰宅いたしました」、ホッとしたようにダカスコスは廊下へと出ていった。
「ほらっ言っただろ、やっぱり驚いて予定より早く帰っちゃったんだよ。だから、昼じゃなくて中庭でのお茶に誘えば良かったんだ」
「それなら昨日、村田が少尉に言っとけば良かったじゃないか」
「言ったら遠慮しちゃうだろ、あくまでさりげなく偶然を装ってだねぇ──」
「お気遣い、ありがとうございます。思いがけず陛下と猊下に拝謁を賜わり、家族も大変喜んでおりました」
「ほんと? 良かった。俺も楽しかったって言っといてね」
「はい、お伝えいたします」
「それじゃ、今日のお仕事は終了~!」
勢い良く席を立って部屋を出ていく陛下の後をゆったりと続いた猊下は私に「すてきな奥さんだね、自慢するのも分かるよ。ところでさっ」とささやいた。
「なんでしょう」
「どうして名前で呼ばないの?」
「あ~、それはですね、……あまり皆様のお耳には入れない方がよろしいかと」
「んっ?」
「その……、ある方と同じなのです。かつてはありふれた名前だったのですが」
「って?」
「巷では『赤い……なんとか』と」
「ああぁ~、なるほど。確かにいきなり聞いたらみんなびっくりするよ」
懸命にまじめな顔を作ろうとされていたが、込み上げてくる笑いが抑えられないようだ。大体、妻の名前を聞いた人は「奥様は落ち着いた方で良かったですな」と安心したように云うか、猊下と同じような反応を見せる。
「ええ。ですから、どうしても人前で呼ぶ必要があるときはミドルネームのゾーヤと呼んでいます。こちらはごく普通ですから」
「ふふふっ、確かにその方がいいね」

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