このところ、寝室に伺うと猊下はすでに支度を済まさ、起きたばかりの少し緩い猊下が見られないのは残念に思う反面、いまだに猊下に触れることをどこか恐れ多いと感じている私は助かっている。

翌朝、昨日に引き続き良い天気で、幸先は良い……と思えた。
いつものように午前中の講義を終わられたお二人の今日の昼食は城の奥、低い植え込みが小道を縁取る庭園の東屋でお取りいただくことになっている。四本の支柱で支えられた円形の東屋は周囲から見えるものの、中のベンチに座ってしまえば人がいるがどうか分からない、また、周りを水路が取り囲んでいるため中での会話は聞きにくい。きっと恋人との逢い引きには良い場所で、妻がいればしばらく憩いたいくらいだ。

中央にセッティングされたテーブルには料理長が腕を振るった料理が並び、「渋谷、その皿、回して」「おう!これうまいぜ」、水路を挟んで警護に立っていた私は、時折背後から聞こえるお二人の声に陛下の言われた猊下の『てんしょん』の低さは感じられない。
「はぁ〜、食った、食った」
「腹、擦るのはよせよ。オヤジっぽいよ」
「新しいのはいいけどさぁ、この服、フィット感が良すぎるよ。俺はもうちょっとゆったりめが良い」

食事を終え、水路にかかる橋を渡りながらこちらに歩いてこられたお二人の耳にも届いたようだ。特徴的なあの声。
「へ〜かぁ!げ〜かぁ!」、大きなスライドでこちらに向かってくる、オレンジの大男。
「ヨザック!お帰りぃ〜」
振り返ると、手を振っている陛下に、水路に目をやっている猊下。
(まさか?)
見つめている私、こちらに来ようとしているグリエさん、そして陛下に視線を向けると、
「渋谷」
「んっ?」
振り返った陛下の腕を掴んで水路に飛び込んだ。
「村田ぁ!」
けして深くない水路にもかかわらず勢い良く立ち上がる水柱の合間からそのお姿が見えなくなるまで、猊下はずっと同じ方向を見ていた。慌てて駆け寄るグリエさんを、この間のような瞳で。

さらさらと音を立て元の流れに戻るまで、私たちは並んで見ていた。
「ほんの少しでもお会いになれて良かったですね。お帰りなさい」
「ええ」
グリエさんはそれ以上言葉は続けず、呆気に取られた給仕たちがテーブルを片づけ始め、他の警備たちが立ち去り始めてやっと、気落ちした声で「ただいま」と口にした。
「お仕事は順調にいかれたのですか?」
「あっ、ちょっと時間はかかっちゃいましたけど、終わりました」
「さて……戻りましょうか」
「そうですね」

道々、話しかけていくうちに飄々としたグリエさんに戻っていく。もうすぐ棟の入り口というところで、以前から計画していたあることを提案してみた。
「グリエさん、この後のお仕事は?しばらく王都にいらっしゃいますか?」
「閣下からは数日の休暇をもらいましたが、どうしてです?」
「実は妻から頼まれまして。我が家の夕食にお誘いするようにと」
「食事って、俺を?」
「はい、我が家では一緒に働く同僚や部下を招くことは恒例なのですよ」
「でも、お館で食事なんて……」
「そう気になさらずに。家族だけの、ほんの内輪のことですから。ねっ、明後日はどうです?」
「はぁ、そういうことなら……伺わせていただきます」
「良かった!妻が喜びます」

エントランスでグリエさんと別れた私は、フォンクライスト卿にお二人がチキュウに戻られたことを報告に行き、猊下が借り出されていた本を書庫に戻し、自分の荷物をまとめて給金をもらい、自宅へと帰った。

グリエさんが招待を受けてくれたことを妻に話すと、「では、明日はお母様と市場に行かなくては」と声を弾ませた。「そうしておくれ」と告げたが、実のところ、グリエさんが留守の間に起こったことをどう話そうか迷っていた。

日没を告げる鐘が鳴り終わった頃、我が家を訪れたグリエさんはきちっと着こなした国軍の制服で、「ほぅ〜、制服姿は初めてですね、とても似合ってらっしゃる」
「俺の持ってる中じゃ、一番フォーマルなんだけですよ。いやだなぁ、まじまじ見ないでくださいよぉ〜」
「うん、やはりこのデザインは長身向けだな。きっと私が着ると丈が長いと思ってね、国軍には入隊しなかったのですよ。さっ、こちらにどうぞ」

食事の支度が整うまで男たちに出番はない。図書室で父にグリエさんを紹介すると、懐かしそうに若い頃行った人間の国の今を問う父に合わせて如才なく話を盛り上げてくれ、アルフレッドが呼びに来た頃には二人はすっかり打ち解けていた。
我が家には広くて仰々しい来客用のディナールームもあるが、家族が使うのはもっぱら手を伸ばせば隣に届く、こじんまりとした方だ。

部屋の中心に置かれた円形のテーブルには、中央奥に父が、グリエさん、母、私、妹、妻と時計回りに座した。グリエさんが私や妻に視線を向けると否応なしに妹を見ることになるよう配置したのは、おそらく母だろう。私としては別に異論はないが、あいにくと妹はまだ伴侶を持つつもりはないようだし、好みかどうかは……なんとも言えない。

図書室での会話はそのまま食卓に持ち込まれ、女たちもグリエさんを気に入ったようだ。母は妹の伴侶として、妻は頼もしい夫の同僚として、肝心の妹は豊富な体験とそれを楽しく聞かせる話術のうまさに。(いやはや、なんとも)

食事が終わって三人で図書室に戻ると酒を飲みながら時間を過ごし、「あなた、そろそろ二人を解放してさしあげたら」と母が父を迎えに来て、やっと私たちだけになった。
「楽しいご家族ですね。食事もうまかったし、呼んでいただいてありがとうございます」
「こちらこそ。母が質問攻めにしてしまってすいません」
「あははっ、お母上の目的は明白でしたね。でも、ミス・ユーディトはそのつもりはないようだ」
仕事柄、人の言動から心を読むだろうグリエさんには、母の態度は読むまでもなくあからさまだっただろう。
「ええ、だから余計に母が積極的になりましてね。まったく困ったもんだ。……さて、実は──」
「例の件、ですか」
声を落とした私に合わせるように、手に持ったグラスに視線を落とした。
「聞かれましたか。私一人しかいないときに休みなどのんびり取るべきではなかったのです。申し訳ありません」
「俺に謝る必要なんてないですよ。油断してちゃんと室内まで護衛を付けていかなかった猊下がいけないんです」
「陛下ほどではないにしろ、始終他人が側にいるという状況はあまり心休まるものではありませんよ。まして、チキュウではそのような環境にはないとおっしゃっていらっしゃるし」
「そのくせ陛下には『君は守られることに慣れなきゃいけない』とか言っちゃうんですよね。自分だって同じなのに……」
やっと私を見たグリエさんは中途半端な笑みを浮かべていた。
「それだけではありません。その後は城内ですら行動を控えられて、かろうじて陛下とお食事のときだけお部屋を出られるという有り様。ろくに日にも当たらず、一昨日、行なわれたヤキュウの試合が久々の外出とは。一日中、読書されて……あれではまるで隠者のようです」
「それで……俺に、どうしろと?」
「外へお連れしていただきたいのです。本では分からない『暮らし』を取り戻させて差し上げたい。情けないですが、私の剣の腕ではお忍びで城下にお連れすることもできません」
「猊下が望まれますかね」
「あなたが誘えば……部屋からお出になられるでしょう。猊下にとってあなたは特別だから」
「随分と俺を買いかぶってますね。俺だって少尉と同じように……単なる護衛だ」
「本当にそうですか?」
「何を言いたいんです」
声を落として探るように向けられた視線は鋭かった。(初めての印象は間違ってはいなかった。彼は飼い慣らすことのできない野生の獣だ)一瞬でも油断したら襲いかかり喰いちぎる、そんな威嚇がこもった目に対峙したのは先の大戦以来だ。
「いいえ。……ただ猊下の、心と体の健康を心配しているだけです」
敵意のない目で見つめ返すと、これまでと同じようにどこか人をからかうような瞳に戻った。
「さて、随分暗くなったし、これで失礼します」
「そうですか。それではこちらを持っていかれるといい」
「あれ?これってアニシナちゃんの……、んっ、ちょっと違うな」
「さすがにご存知なんですね。ええ、改良型です」
「もうちょっと時間がかかるって言ってたのに。でも、いつ返せるか分かりませんよ」
「また食事をしにきてくださればいいのですよ」
「ありがとうございます。それでは、また」

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