館の玄関から門までは縁石に沿って明かりが灯り、一度、外の道に出るとそこからはほとんど人気のない暗闇が広がっていた。辻々には街灯が置かれ、新月に近い月は空にあるものの、夜道を安心して歩くには不十分だ。闇にも道にも慣れてはいたが、灯を持たずに歩くほうがかえって不自然に見える。
借りた改良型『畜魔型 闇夜知ら〜ず』で照らしながら新市街の下宿へと帰った俺は、繰り返し、繰り返し、少尉の言葉を思い出していた。

『猊下にとってあなたは特別だから』
……言われるまでもない。だからこそ……ぐすぐずと帰国を延ばしちまったんだ。まったく、俺としたことが。

最初に会った時、その度胸の良さが気に入った。一緒に旅をする内に時折見せる謎めいた言動を疑問に思うことすらなく、ただ彼といると、それがどんな状況にあっても楽しいということを意外だとも思わず。
つい、いましがたまでそこにいたような温もりの残るティーカップに触れたとき、俺の中にあったのは『残念だな、もうちょっと一緒にいたかったのに』しばらく一緒にいた仲間がいなくなったときの、ごく普通の感想……だと思っていた。

彼の住まう部屋が決まって模様替えの責任者をもぎ取ると、装飾に家具にカーテンに配色を考えながら探して、試して、位置を変えて、やり直して、ああしよう、こうしよう、と。よく考えたら、自分の店だってここまで気を使ったことはない。

なんであの時、自覚しなかったんだろう。そうだ、今まで誰かのために心地よく過ごしてもらう部屋を用意するなんてことしたことなくて……楽しかったんだ。楽しくて、楽しくて、他のことなんか目に入っちゃいなかったんだ。
やっと陛下と一緒に彼が帰国して、水に濡れた黒髪に、クルクルと変わる表情に、心が舞い上がった。大賢者の部屋で知った、彼の苦悩と決意。二人の前で「俺が欲しい」と言ってくれた時の照れ臭さ。
剣はおろかきっと誰かを殴ったことすらない、男にしては華奢な手の甲にくちづけたとき、うれしそうに微笑む黒い瞳に満ち足りた思い、それが好意以上のものを訴えていた。

ふんわりと頭からすっぽり被せられたんだ、愛という薄絹を。
それなのに、流れ落ちる水音が響く大広間で陛下と一緒に滝に消えた彼は、俺を見もしなかった。
置き去りにされた、また。

彼がいなくなった後の日常は、彼と会う前のそれとは確実に違っていた。
帰国するのは報告を待っている閣下のためで、次の仕事までは息抜きのちょっとしたお遊び。予定も、待っている人も特になかった。それが、(もしかしたら……)と期待したり、(この情報も欲しがるかも……)と思ったり、(この本、古そうだな。買って帰ったら喜ぶかな。えっと……うへぇ、高いなぁ。金は足りるけど、ドレスの支払いが……ええぃ、買っちまえ)なんて散財したり。

愛する人の側にいて、匂いを嗅ぎ、肌や髪に触れ、穏やかで満足な顔を、寛いで無防備な姿を見せて欲しい。そのためにはなんでもしよう、と思っても今の稼業じゃそうもいかない。だから今まで気楽な付き合いしかしてこなかった。
その一方、彼の見せた好意を読み違えてるんじゃないか。同じ気持ち……と思っているのは俺の勘違いなんじゃないのか、とも思ってしまう。彼の愛情がどういう種類のものなのか。気の合う友達のように一緒にいるだけでいいのか、それ以上を求めているのか。陛下の振る舞いを見ていると、どうしてもそこが気になってしまう。心と体は、意図せず反することがあるから。
……ったく、だから恋に恋する乙女なんてもンを実践しちまうんだ。

両シマロンでの任務は現地の諜報チームから報告を聞いて次の指示を伝え、足りない部分を補完するために調査し、同じように忍び込んでいる他国の動きを確認し。
商人になりすまして潜入した城の兵舎で声をかけてきたのはアイツの方だ。

「この剣の出来は……良さそうだ。これなら次の天下一武闘会に使えるだろう」
「ありがとうございます。そうそう、残念でございましたね、せっかくのご活躍の場がとんだことになったとかお聞きしました」
「ああ、あんな展開は予想外だったな。それにしても、選手ではない少年がベンチにいたとは思わなかった」
「ほう、そうだったのですか?私は商売に忙しくて見そびれてしまいました」
「俺が手合わせするはずだったカロリア領主は輝ける夏の太陽のようだったが、その少年は静かに見守る、夜の月のようなまなざしが印象的だった」
「それは見たかったですね。私は魔族ってのを見たことがなくて」
「俺の知り合いに、生まれたばかりの子に『月になりますように』と願った者がいたが、成長したらきっとあんな感じなんだろうな」
(『月になりますように』だって?とんでもない願掛けをしやがって)
「さあ、どうでしょう。満ちたり欠けたり、見た目通りの子供なのか思慮深い賢者なのか、その正体を容易に見せない複雑な人物に育つかもしれませんよ」
「……そうだな。もう二度とお会いすることもないだろう。さて、うっかり長居をしたな。これをもらおう」
「はい、ありがとうございます」

……そりゃあ、月明かりに浮かび上がるほんのりと熱を持った肌ってのは確かに惑わされるくらい魅力的だが、闇を歩く俺にとって明るすぎる満月は仕事の邪魔。危険が増し、より慎重にならざるを得ず行動を制約するものでしかない。彼をその『月』にと願うなんて。誰だか知らないが、もっとマシなものを願え!!

船の方が早いのに騎馬で港まで戻り、快速艇も選べたのに一々港に停泊する便を選んだのは、この、打ち明けようか、尋ねようか、止めておこうか、一瞬一瞬に揺れ動く心を決める時間が欲しかったんだ。
波の向こう、空との境界線の間に国の海岸線が見えてきて、俺は決めた。チャンスを見つけて、言おう、彼に Nein, Danke と言われてもいいじゃないか。それで俺が彼を嫌いになるわけじゃない。

血盟城に着くと、まずは閣下に報告。
小シマロンでは天下一武闘会での自国のチームの早すぎる敗退にもかかわらず、いまだ大シマロンの失態に拍手し、自国の領土でもない属国の独立を勝手に認めたベラール“2世殿下”に対する非難がくすぶり、これを機に『小』の字を消し去ろうという声は、重臣たちの『我が王はお若く、周囲の国との外交も始めたばかり。焦らず今しばらくは様子見で良かろう』で、不満を抱えながらも落ち着きを見せている。

そして、国内がこのような状況でもサラレギーの意図は洩れてこない。建設中だったサラレギー記念軍港は完成。規模は、砲門を持つ戦艦6艘、重/軽巡洋艦合わせて18艘、輸送艦など20艘あまりが停泊可能な埠頭。兵舎など10棟。おそらく大シマロンの軍港と引けを取らない大きさで、相変わらず厳重注意が必要。箱については、その存在も紛失もまったく聞こえてこず、完全極秘事項となっている模様。

大シマロンでは先頃の失敗で表立ってはいないものの、ベラール2世から一歩引いた立場を取るものが出始めたが、かといってベラール4世に与するでもなく、浮遊層が出来つつある。通常、独裁国家で権力者から離反するということは死を覚悟しなければできないが、“殿下”からの離脱では粛正理由とするには弱く、名目上の権力者である“王”は自分からの離反ではないのでそのまま放置している。このまま浮遊層が増加するかは分からないが、迂闊に手を出してそれらが再び“殿下”の元にまとまることだけは避けるべき、……などなど。

報告を聞いた閣下は更に質問と検討事項を口にし、おおむね次に打つ手のイメージが掴めると「ご苦労。5日ほど休みをやる」いつもならそれが退室のタイミング。ところが、俺に視線を合わせると一呼吸置いて「お前が留守の間に──」と続けた。
いつかそういうバカが出てくるんじゃないかとは思ってはいたが、こんなに早く、こんなにくだらない理由でとは……。

「猊下は──」
「落ちてきた本で額を少し切っただけだ」
「で、そいつはどうなったんですか? もちろん、軍規に照らし合わせて死罪ですよね」
(でなきゃ、俺がたたっ切ってやる!!)
「いいや。北の島に流刑と決まった」
「なんだって!? どうしてっ!!」
「その男は脅すのが目的で元から殺すつもりはなかったそうだ。『それは殺人未遂じゃなくて、脅迫と暴行。確かに僕は怪我したけどそれだってたまたまじゃないか。それを死罪にするなんてやり過ぎだよ』と猊下が温情を示されたのだ」
「そんなバカな!! 陛下はそれを許したんですか!?」
「猊下をバカ呼ばわりするのか」
「いえ、そうじゃありませんが──」
「陛下も納得されていた。それに、もう済んだことだ」
(でも、……終わりじゃない)陛下が盤石な基盤を築いても、猊下がこちらにいる限り危険は付きまとう。どんな顔をして猊下に会えばいいか迷い、部屋を出て奥庭に向かう足取りは重かった。

奥庭の入り口には警備が立ち、顔見知りだってのに入ろうとする俺を留めた。所属と氏名を言わされ、やっと中に入れば人の背ほどの生け垣の外側には必ず兵がおり、今まで以上の警備体制に──お二人からは見えないようにしているが、これじゃ息が詰まるだろう──ため息が出た。

少尉が立つ東屋から黒い服の少年たちが姿を見せた。階段を下りながら陛下が腹の辺りに手をやって……ああ、満腹のようだ。
重い気持ちを振り払って、明るく「へ〜かぁ!げ〜かぁ!」と呼びかけた。

近づく俺に「ヨザック!お帰りぃ〜」と元気よく手を振っている陛下の脇で、猊下が足下に目をやっている。
(まさか!? 待って! 待って!! 行くな、猊下!!)
駆け出した俺に視線を戻すと、陛下の腕を掴んで水路に飛び込んだ。
陛下が見せる水の竜のように水幕が二人を覆い隠し、本流からはじけ飛んだしぶきが虹を生み出す中、もつれ合う黒が沈んでいく。

俺が水路までたどり着いた頃には水は収まりかけ、「ほんの少しでもお会いになれて良かったですね。お帰りなさい」と少尉に言われても「ええ」としか答えられなかった。
(一緒にいたいと思っても、……そうか、留まれないのは俺だけじゃないんだ)

猊下に言うはずの「ただいま」を言い、話しかけてくる少尉に答えながら(行っちまったもんはしょうがない。次があるさ……きっと)そう自分に言い聞かせて東屋、奥庭、血盟城から立ち去った。
さて、猊下のいないこの休暇をどう過ごそう。そうだ、店でバカ騒ぎでもしようか。
その後は、……仕事が待ってる。

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