自室に戻った私は手帳を取り出し……ため息をついた。

明日のご予定は、皆様と朝食を召し上がられた後、徴税担当から各領での人口調査を兼ねた本年度徴収状況、続いて直轄地の食糧担当から農作物収穫状況、対外庶務担当から輸出入状況などなど、一連の報告をお受けになり、昼食後、陛下は乗馬の訓練。猊下は「僕、見てるだけで寒いからやだよ」と書庫に籠もられてしまうだろう。以前からそれとなくお勧めしても「いいよ、僕は」と言って相変わらずお乗りにはならない。もしお乗りになるならグリエさんにたずなを持っていただけば、他には聞かれないようお話されることもできるが……そういう状態で話される内容ではないな。
書庫も前のことがあってから廊下はもちろん中にも警備が増え、静かだからこそ小さい声も聞こえてしまうし……、ああ、夕食後はお帰りになった上王陛下のご希望で歌劇の観賞会が入っている。
どうしたらよいだろう……。

北部や山間部からは雪の便りが届き始め、王都でも霜が降りるようになると、朝晩だけでなく、日中も室内には暖炉の火が欠かせなくなってきた。名ばかりの晩秋は足早に過ぎ、季節は冬を迎えている。

*****

「何だって『甘いミルクティー』なんて言ったんだ!? 『可愛いよ』でも、『似合うよ』でも、他にいくらだってあったはずなのに、あんな言葉しか出ないなんて……僕はバカだ」
布団を被って口から飛び出た言葉は尻つぼみに消えた。

奥勤めの侍女らしく、つつましく主への気遣いを見せる中、チラチラと僕を見る期待を込めた瞳。良い返事を切望しながらどこか諦めをのぞかせている、そんな彼の視線が僕の心に焼き付いて離れない。
でも……いくら口が達者な僕だってサラッと言えないことだってあるさ。
それに、少尉は気を利かせて席を外してくれたようだけど、人目がなくなったから「はい、それじゃ」っもんじゃないし、ヨザックだってそうだ。伸ばした指先の更に先、わずか2歩程度離れた距離で僕を見ていただけ。経験があろうとなかろうと、本気であればこそ、こういうことに緊張しない奴なんかいない。

明日、チャンスはあるだろうか。
いいや、ここは行動に出るっきゃない。
ただ待つなんてウンザリだ。
これは僕らが抱える、世界一つ滅するかも……なんて問題じゃない。
ささやかな僕個人の、ほんの数語で解決できること。
さて、時間をどうやって作り出そう。

*****

「ヨザック……か」
最初の一手は俺から、そして次は猊下の番。

毎回お会いするたび陛下にお褒めいただくこの立派な身体は、疚しさを持つ相手には底知れぬ恐怖ってやつを味あわせるにはうってつけだが、大きな生き物を無意識に怖いと思う女子供には警戒心をもたれてしまう。だから、できるだけおどけて見せたり、常に距離を取ったり。
そして、好意を向けて欲しい、愛して欲しいと思う相手には慎重に慎重を重ね、その結果、何も伝わらないという愚かさも体験済み。
でも、今回はしくじっちゃいないようだ。

大人とも子供ともいえない揺れ動き、惑う年ごろとはいえ、変幻自在、おっそろしいくらいに謀略を得意としながらいまだ『自分』というものを確立しきれていない猊下に警戒心を持たれずに側にいるにはドレスの方が良いかと思ったが……、グリ江ではなく俺をご所望とは、どういう手を打ってくるつもりだろう。

*****

今日のグリエさんは『異国を感じさせる、どことなく軍服風』と曖昧な表現しかできない服装で、昨日のエプロンドレス姿と同じように振る舞ってもその印象は異なり、力強さと頼もしさを感じさせる。(グリエさんのような達者を前に、私たちは一体どれだけ言動や服装に惑わされているのだろう)

昨晩ご要望のお茶をお持ちしたグリエさんをご覧になった猊下はいつもの「おはよう」ではなく、ふと軽い笑みを浮かべての「それ……」だった。グリエさんもただニコッとされただけだったが、きっとお二人だけが知る──それも笑みが出るような──思い出なのだろう。微かな寂しさを伴う、心地よい疎外感。これもまた一興。
だからなのだろう、お二人の緊張は昨日より緩く、視線を合わせることもわずかながら増え、こうなると、早くなんとか機会を……と思うのは当然だろう。

両手で持ったティーカップの湯気をフゥーフゥー吹きながら「外かぁ〜。晴れてるけど、寒いよね〜」
(やはり……)
「手袋にマフラー、それと耳当てもいるなっ」
(えっ?)「猊下、ご参加なさるので?」
「もちろんだよ。いつも見物に行ってるじゃない」
「はっ、はい。ですが、確か……ああっ、そうです。本日の科目は『遠乗り』のご予定で……」
慌てて手帳で確認したが、間違いない。馬場で足慣らしした後、近くの林を散策され、天然の外堀ともいえる、血盟城や王都を含むこの広い高原の北から西を流れる川沿いを遡ってそのまま城にお戻りになる行程、所要時間およそ1刻半──チキュウでは3時間というらしい──と書いてある。
「それでは、陛下がたが出発されましたら城にお戻りになられますか?」
「馬車で付いていくつもりだけど、ダメ?」
「林道や川沿いの一部の道は細く、馬車は通ることができません。迂回することは可能ですが」
飲み終わったカップをソーサーに戻しながら「そうなんだ、どうしようかな」と言った後、「……その格好なら大丈夫だね」
(誰に向かって?)とは愚問だ。振り返った私に狡猾な笑いを浮かべたグリエさんがグルッと目を回した。うつらうつらとしか休めなかった昨夜の疲れが一気に出て、肩の力が抜けた。
そうだった、若いものは一旦これと決めると周囲など目に入らず、己が道をただひたすらに走っていくものだった。これ以上の心配は無用、特にこのお二人ならどうとでもするだろう。
「なにその顔、朝食に行くよ」
急いで部屋を出る猊下は顔を背けるようにしていたが、ほんのり赤みのさした頬がいましがた飲んだ暖かい紅茶のせいと言い切れないことだけは確かだ。

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