かなり経ってから戻ってきたグリエさんは何を報告するでもなく、また何かを持ってきたでもなく、猊下の隣に立つと「ただいま帰りました」と言ったきり。猊下もただ「お帰り」と云うと、後は二人で陛下に声援を、というより乗馬ぶりの批評とチャチャを入れるばかり。
熱意溢れる教師と愛馬にみっちりしごかれた陛下は「こういう時は歩いた方がいいと思うんだ」と言って腰を擦りながらぎこちない足取りで城へと向かい、並んで歩く猊下は労るように言葉をかけているが、その実、やはりからかっているように聞こえる。
そんなお二人の後ろを歩いていた私に、「なんかありましたか?」グリエさんがさりげなく声をかけてきた。
「あ……、出過ぎたことを言ってしまいました」
「どんな?」
「無抵抗は、時を選ばず、どんな相手にでも『万能』という訳ではない、と」
「ああ、そういうことですか。剣は訓練したからといって達人になれっこないのは明らかだけど、まあ、駆けさせるのは無理として、せめて馬くらいは一人で乗れるようになって欲しいと俺も思いますね」
「では、お勧めしましょう!」
「まあまあ、そう焦らない。猊下は結構頑固ですから、そのつもりになったときにそれとなく、ねっ」
「は……い」
城に戻ると内庭でお茶の時間。歩いたことでずいぶん回復した陛下は「まだ腰の調子が」と言いながらも元気を取り戻し、逆に猊下はくたびれ果てた様子で言葉も少ない。なるほど、お二人の基礎体力はかなり違うようだ。それにしてもあの程度の距離でこの様子ということは……。
その後、眞魔国の地理と産業の講義を受け、夕食と自由な時間を過ごされたお二人は遅番の警備が配置につく頃、それぞれの自室へと戻られた。
主がいない間に整頓された部屋はカーテンが閉められ、明かりが灯り、春の急な冷えに対応できるよう暖炉に火が入れられていた。
「少尉、『湯たんぽ』持ってきてください」
猊下が風呂に入っている間、グリエさんに教わりながら寝室の準備をしていた私は聞きなれない言葉に「『ユ・タン・ポ』なんですか、それは?」と聞き直した。
「寝るとき、足を暖める金属の枕みたいなもんです。少尉の部屋のキッチンにありますから」
言われるままに部屋からそれらしき物を持ってくると、グリエさんは金属製で口の広い水差しのような器に洗面台からお湯を入れ、さらに暖炉から持ってきた熱した石をその中に入れた。
ジュッと音がして、入浴に適した温度から一気に沸騰した水温へと上がったお湯を『ユ・タン・ポ』の中に注ぎ込んだ。しっかり口を閉め、それ用に作られたらしい袋に仕舞うと「さっ、出来上がり」とベッドの、ちょうど足辺りに差し入れた。
「なかなか便利そうなものですね」
「ええ。以前、ご一緒したとき『寒くて眠れない』とおっしゃって、そのとき『湯たんぽ』ってのを教えてもらって作ったんですよ」
「大量に……作れますか?売れますよ、これ」
「うふふっ、商人としては気になりますか?」
「ええ……まあ。これから準備して、初秋辺りから宣伝して、晩秋辺りから売り出せば……」
「何を売り出すの?」いつの間にか風呂から上がった猊下の声が、後ろから聞こえた。
「少尉がね──」
「グリエさん!」
「いいじゃないですか。『湯たんぽ』を売りたいんですって」
「まっ、とってもエコな商品だし。いいんじゃないかな」
「そうですね。さっ、猊下、髪、乾かしましょ」
「うん」
夜着の上にガウンを羽織った猊下は慣れたように椅子に腰掛けて項垂れ、グリエさんは暖めてあったコテを取ってそのぬばたまの髪を乾かし、伸ばしていく。
以前、「やってあげようか?」と言ったとき、妻は「不慣れな殿方にやっていただくのはちょっと怖いわ」と言って苦笑しながら断わってきた。実際、コテの温度は思った以上に熱く、肌に触れれば火傷をする。それなのに恐れることなく猊下は完全に委ね、グリエさんは細心の注意を払ってその髪に触れている。(『信頼』と云うには親密すぎるこの光景を……なんと表現すればよいだろう)
「どうかした、少尉?」
俯いた状態から声をかけられ、上目遣いでこちらを見る猊下と視線が合った私は、妙な動悸を感じながら「いえ、どうもしてはおりません」と慌てて答えた。
「なんか、心ここにあらず、だったよ。困るなぁ~、それじゃ」
「申し訳ございません、猊下」頭を下げると、猊下の視線から逃れたことにホッとしていることに気付いた。
「本気で言っちゃいませんよ、少尉。俺だってしょっちゅう見とれちゃいますから」
猊下の頭を横に傾けながらグリエさんが助け船を出してくれたが、「見ていたくなりますよね、お可愛らしいから」と続けると、「まったく、その言葉は渋谷に言えよ」と猊下は余計にむくれている。
「しょうがないじゃないですか。お二人でいると倍どころか二乗で、周囲の視線は釘付けぇ~♥」
「だいたい、『可愛い』ってのは女の子に向かって言う言葉で、男に使うもんじゃない!」
「猊下は嬉しくないんですか?グリ江はとっても嬉しいのにぃ~」
「グリ江?」出すともなしに出てしまったつぶやきに、二人の視線が集中した。
片腰に重心を移し、尋ねるように顔を傾けながら口元をゴツい指先で隠してキョトンと目を見開いたその姿は、まるで女性の仕草だ。
「ああ、無視した方がいいよ。精神的ダメージが大きいから」
「ひっどぉ~い!グリ江ちゃんは可愛いねって言ってくれたのは嘘だったのねっ!」
まるで……酒場でよく見る光景。
「女装の時の君は可愛いよ。でも、男の格好の時は止めてくれ」
「グリエさんが……女装?あの、その……体格で?」
「少尉まで。ハァ~、どうして男ったらこうなのかしら、女性に向かって無遠慮に身体的なことを言うなんて!」
「いや、君だから言うんだよ。少尉、これは彼の趣味というか──」
「ちゃんと仕事に役立ってますっ!」
「とにかく、ヨザックが女装してるときは『グリ江ちゃん』なんだ」
「だから、そう呼んでくださいね♥」
ウインクとともに言われ、背筋に冷たいものが流れた……気がした。軽く固まった私を置き去りにして二人の会話は続いていく。(先ほどの光景となんと違……いや、静と動の違いだけで、根本は同じ。そこに誰がいようと立ち入りがたい、二人だけの絆があるのだ。でも、それは……なんなのだろう)
ベッドに入った猊下から本と眼鏡を取り上げたグリエさんは、「夜更かしはダメですよ。それじゃおやすみなさい」とサイドテーブルのランプを絞って、私を押し出しながら寝室のドアを閉めた。
「今夜は私が当番ですね」
「そんなに気負わなくても大丈夫。ドアの前には番兵が立つし、見回りの回数も増えてますから。それに本当に用があれば、たとえ貴方が寝ていようと遠慮なく紐を引きますよ」
「そうしてくださるといいのですが。ところで、グリエさんはどちらでお休みなんですか?急な用事があったときのために教えておいてください」
「俺?一応、北棟側の端です。あっ、でもキッチンがないので、何もなければ朝はそっちに顔を出します」
この棟に出入りできる場所は、1階、建物の中心に外側と中庭に行き来でき、それに階段ホールでもあるエントランス──ここは2階以上が渡り廊下へとつながっている。内廊下の端にそれぞれ南棟・北棟と出入りできるドアと使用人や兵が使う狭い螺旋階段。
三階までは内廊下を挟んで両脇にそれぞれ資料室や執務室、警備兵の控え所などがあり、四階と猊下がお住まいの五階は廊下は中庭側にだけ、その分、奥行きのある部屋が作られている。階段ホールから南棟の間に猊下のお部屋があり、両端に私とグリエさんの部屋があることになるが、
「一応……ですか?」
「ほらっ、ウチの閣下は人使いが荒いから。それじゃ」
「おやすみなさい」
自室に戻った私は上着を椅子にかけると、いつ呼ばれてもいいように服のままベッドに横たわった。警備兵が立てる靴音と鞘がぶつかる金属音は軍に、特にあのひどい戦いに戻ったような重苦しさで、いつもなら寝つきのよい私は久々に断片的な浅い眠りをとることになった。
微かなノックに気がついた私は無意識に「はい」と返事をした。
「おはようございます」
睡眠を十分にとったらしいグリエさんは元気に入ってくると、まっすぐキッチンでお湯を沸かし始めた。
「あれぇ~、服のまま寝たんですか。支度は俺がしますんでシャワーを浴びてきたらどうです?」
「あっ、はい」着替えを持って地階に降り、一通り身支度を整えて五階に戻ると、猊下の部屋の前でグリエさんに追いついた。こうした日常を数日過ごし、やっとなんとか身体と精神が馴染んできたころ、これこそ『驚愕』としかいいようのない場面に直面することになった。
始まりは、ため息混じりの「あ~あ」という猊下のお言葉からだ。
その日、大広間で行なわれていたのは儀典長でもあるギュンター閣下の教えによる式典での礼儀作法。長々と読み上げられる来賓の紹介や、各種族特有の挨拶の仕草などは気配りばかり要求され、活動派の陛下にとってはかなり大変そうに見えた。
「なんだよ、それ。疲れたのはおれの方だよ」
それまで脇に控えていた猊下は「そうじゃないよ」と言いながら陛下に近づくと、どこにそんな力があったのかと思えるほどの力で陛下に手を回すと、壇上の後ろを落ちる滝へと飛び込んだ。
「猊下、なにをっ!」
「陛下ぁ~!」
「ああっ!」
その場にいたものすべてが口々に驚きの声を上げて駆け寄ったが、おそらくその声は届かなかっただろう。私は駆け寄ることはおろか、声を上げることすらできなかった。
慌てふためく人々を呆然と眺めている私の脇で、「あらぁ~」と残念そうな声が聞こえた。振り返ると、眉尻を下げて「行っちゃいましたね」と少し寂しげに笑っている。
「グリエさん、これは……」
「チキュウに……お帰りになったんです」
「帰るって、水の中から?それって変でしょ?絶対、変ですよ!」
「そう、普通に考えたら変なんですよ。でも、陛下と猊下がお住まいのチキュウとは、水を介して行き来なさってるんです」
「陛下が水の術者だからですか?それにしたって、今までそんな力なんて聞いたことがない!」
「まったく、あいつの力は強力だが僕たちには理解できない動きをするからなっ!」
フォンビーレフェルト卿は怒りを含ませた声で言い捨てると靴音を響かせて歩き去り、ギュンター閣下は水しぶきを浴びながら滝近くで泣き崩れている。
「さあ、今月のお仕事は終了です。私物を片づけて、給金もらって、お帰りになるといい」
立ち去り際の、それまでとは違うグリエさんの固い言葉に違和感を覚えたが、仕える方がいらっしゃらない以上、確かにここにいても仕方ない。まるでお祭りの最後のような寂しさを感じながら自室に戻って荷物をまとめ、庶務庁の事務室に出向いて給金の支払いを待っていた。
「パルヴィアイネン殿。お待たせいたしました、こちらが今回の給金です。額をお確かめください」
「ありがとうございます。ああっ、確かにございます。それではこれで──」
「あの……」
「なんでしょう?」
「週に一度、お越し願えないでしょうか」
「構いませんが……」
「あちらの山と重なる書箱をごらんください。内々とはいえ皆様へのご紹介後、猊下への書状や贈り物、それにパーティなどの招待状などが届きまして、……できればその仕分けもお願いしたいのです」
(失念していた!)「はい、もちろん。猊下よりもそのように言い付かっておりますので、伺わせていただきます」
あれはお仕えして二日目。庶務庁の係が持ってきた書状の束を見た猊下が、
「もう、こんなに?」
「こちらは親展扱いの分でございます。他の書状と贈り物などは内容を改めましてからお持ちいたします」
「うわぁ、面倒だな。ヨザック、君が目を通して整理しといてよ」
「俺がですかぁ~。文書って苦手なんですよ、報告書ならともかくお偉いさんの持って回った文章って分っかりにくいし。あっ、少尉なら大丈夫ですよね」
「……えっ?ええ、仕事柄、見慣れてはいますが……」
書状の束を差し出しながら「決まりだね、よろしく」と二コっと微笑まれた猊下と、無事押し付けたとニヤニヤ笑うグリエさん。もうこの情景は定番だ。
こうして、春の一月は慌ただしく過ぎた。

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