「あれ?」
「いやぁ、つい書類を読んでいまして。お帰りなさいませ、猊下。寝所のお支度は整っております」
「ただいま、ありがとう。二人とももう休んでいいよ、ご苦労様」と寝所に向かわれる猊下に、「お休みなさいませ。さっ、グリエさん、私たちは失礼しましょう」と俺の腕を取って廊下へ押し出す少尉。どうもペースが乱される。
「ちょ……ちょっと、少尉!?」
「私の部屋でお茶でも飲みましょう」
引きずられるように連れ込まれた部屋で少尉はお茶の準備を始めている。
「図りましたね」
「はははっ。いかがでしたか?」と実に嬉しそうだ。
「ええっ、おかげさまで。まったく!!」
「最近は妻が私のお茶を褒めてくれるんです。お味は?」
狭いテーブルにカップを置いて向かいに腰掛け、声を落とした「猊下にも申し上げましたが──」の続きを言わせず、「分かってますよ。悟られるな、でしょ」と半分焼け気味な俺。昔、実は直情型って奴に言われたことがある。『人は愛することで我を忘れることが多いが、お前は愛されることで忘れるんだな』(うるせぇ〜って!!)
「そうです。巷の浮かれた若者と違って、お二人ともうまくおやりになると思っていた私が愚かでした」
事情を知る少尉に真面目にこう言われてしまったら切り返しようがない。
「以後、気をつけます」
「ぜひ、そうしてください。一挙一投足を見られているのは猊下だけでなく、あなたもですから」
(ありがたいことに、今の季節以上の冷ややかさでね)
「まぁ、あの程度しかできませんが、できることは協力します。さて、今晩は私が夜勤でしたね。あなたは部屋にお帰りになってしっかり寝てください」
少尉のペースに乗せられたまま廊下へと送り出され、自室に戻るとフゥ〜とため息をついた。
(慣れなきゃいけないのは、俺もか……)
最高に幸せな一日はこうして終わり、明日からは不安と期待と、人目を気にする毎日が始まる。

翌日は気抜けするほどいつも通りの日程で過ぎて──つまり、親しくする機会はほとんどなく──夕食が終わり、陛下の私室で猊下と閣下がのんびりしていた。少尉は「先に戻ってお支度をします」と言って夕食の間で分かれていた。戻ってくるだろうと思っていたが一向にその様子はない。
一刻ほど過ぎたころ「渋谷、君、そろそろおねむだろ」
「なんだよ、その幼児言葉!! まあ、ちょっと……眠いかな」
「それじゃあ、僕は戻るよ」
東棟の陛下の私室から猊下の私室がある西棟に戻るには中庭を分断する渡り廊下もあるが、さすがにこの時期、屋根しかない吹きっさらしの廊下は寒くてしょうがない。ちょっと遠回りだが南棟経由で返ることになる。棟と棟を繋ぐ出入り口と2ヶ所ある階段のエントランスには警備兵、灯はついているが人気のない廊下は人によっては薄気味悪く感じるかもしれない。
「昨日さぁ……」
「……はい?」小さな声に半歩、猊下に近づいた。
「風呂にいなかったね」
前を見たままの質問に「あっ、はぁ……先に食事するようにって少尉が」つい、弁解気味になってしまった。
「そう」
「すいません」
「別に謝る必要なんてないよ。食べられる時には食べとくのは当然なんだから」
静かな廊下に、今までより距離を詰めた俺たちの靴音が響く。
「猊下」もう半歩、詰めた。
「んっ?」
「いた方がよかった……ですか?」
「ちょっと……微妙だったな」
俺たちしかいないことに気を許したのか、珍しく素直な言葉だ。
「実を言うと、俺も……そうでして」
しばらく無言だった猊下が「少し近くない?」と囁く。
「人気がないので……」護るためなのか、触れたいのか。言葉にしなかったのはどちらだろう。長いはずの廊下は思ったより短かった。

翌朝、少尉は俺におめざとお茶を乗せたトレイを持たせ、寝所に入るとカーテンを開けに部屋の奥へ。必然的に俺はトレイをテーブルに置く=起こすことになる。(これも『できること』の一つだな)
布団から黒髪がほんの少し見える状態の膨らみを「猊下ぁ〜、あっさですっよぉ!!」と揺する。
「うっるさいなぁ〜」
こもった声もまたいつもの通り。布団を剥ごうかとも思ったが、昨日、逃げ出したことで触れることのできなかった黒髪をツンツンと引っ張ってみた。
「いいかげんにしろよ!!」
顔に被さっていた部分を思いきりはぎ取った猊下はすぐ目の前の俺に、陛下の目とは違う果実の仁のようにふっくらと美しい目を見開いている。
「なっ、なんだよ!?」
(少し尖らせた、柔らかそうなこの唇にキスしたい)思わず顔を寄せる。猊下もまんざらではないらしく避ける様子はない。
「お目覚めですか」
黒い瞳で視野が一杯になろうかという、絶妙のときにかかった声で動きを止め、窓際の少尉を睨んだ。(昨日、協力するって言いましたよねぇ、アンタ!!)
「本日は予定が詰まっておりますので、お早くお支度願います」
何事もなかったかのようにシレッと続けた。
「グリエさん、そこにいると猊下がベッドから出られませんよ。さっ、本日のご衣装を持ってきてください」
「へ〜い」
ベッド脇から立ち上がった俺は──無意識だったが──口を尖らせていたらしい。
「返事は『はい』。それと、そんな顔ではせっかくの美人が台無しです」
クックックッと笑う猊下につられて笑いが込み上げてくる。(あ〜あ、猊下の人を見る目は確か過ぎる)

これ好き
ハートをあげる!! 3
Loading...