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兵士たちは、自分たちがなぜそこに通りかかってしまったかを心から悔いていた。
「くっそぉ、重いなこの箱。魚臭いし、水漏れしてるし」
「しっかり持てよ。早く部屋に放り込んで逃げようぜ」
「おおっ!! だが、無事にたどり着けるかなぁ〜、なんたって──」
「うるせい!! お前は後ろだけど俺は前なんだぞ。なんかあったら犠牲になるのは俺の方じゃないか!!」
そう、二人はいつものように城内警備のルートを歩いていて、大広間前の廊下で赤い魔……いや、フォンカーベルニコフ卿アニシナに役目を仰せつかってしまったのだった。

赤い魔女の部屋。そこはさまざまな罠が仕掛けられ、無事たどり着くことの難しさではおそらく世界一。その上、この部屋に入るものは彼女に略奪され、監禁・拷問、揚げ句の果てに放擲と、およそ余人には恐ろしくて想像すらできない室内にこの箱を持っていかなければならないのだから愚痴や恐れを口にしても当然と云えよう。
ただ、あの部屋に好んで出かけるグレタ姫と城のメイドたちにはなんら影響ないことが、更に──男たちの──恐怖を煽っていた。

万一のことを考えて城の主要部から少し離れた棟をほぼ独占状態──むしろ、他のものが寄りつかない──の実験室まで、意外なことに罠も邪魔するものもなかった。
恐る恐るドアを開けると、想像とは違って本格的かつきちんと整った“実験室”。それでも、できるだけ入らないようドア近くの開いた場所にズズズッと箱を押し込んだ男たちは半分駆け足でその場を離れた。
「おい、そう言えばアニシナ様は誰かを呼べって言ってなかったか」
「あっ、え〜っと、確か『オスカー』って。それ、誰?」
「少尉だよ」
「えっ?!」、いきなりの声に男たちは(これは罠?)と身を震わせた。
「ほらっ、猊下の護衛の。知らないの?」
「存じ上げておりますとも、なぁ」
「ええ、もちろんです。ところで、姫はどちらに……」
「アニシナの実験室!! グリ江ちゃんが心配だから付いててあげるの」
正体が分かって一安心の男たちはグレタの言葉に(グリ江?……グリエさんが入っていたのか?)、(彼は混血だから魔力はないぞ? なんでアニシナ様は……)、(知るかよ、そんなこと!!)と目を見交わし、とっくにグレタが歩き去ったことなど気付きもしなかった。

呼ばれて訪れた少尉が目にしたのは、掛けた布が半分ほど捲られた箱の中で氷漬けのヨザックと、その箱に寄りかかって膝を抱えているグレタの姿。
「グレタ姫?」
「……少尉、アニシナはまだ戻ってこないのかな。早くグリ江ちゃんを元に戻して欲しいのに」
「申し訳ありませんが……存じません。一体、何があったのか教えていただけますか」
「グレタにもよく分かんないの。お父様たちの船に行ったらグリ江ちゃんがうずくまってて、その後『アニシナのところへ』って言ってグウェンは海に飛び込んじゃうし、ギュンターは氷一杯の箱に入れちゃうし、こっちが知りたいよぉ!!」
何も分からないという不安と誰も教えてくれないという怒りで涙ぐむグレタをなだめながら箱の中を覗き込んだ少尉の第一印象は(まるで……死人だ)。
ただ、密かに伝えられるギュンターの数々の奇行の一つに『雪ギュンター』があることを思い出した少尉は(フォンクライスト卿が仮死状態にされたのか)と思い直した。
「きっと、フォンクライスト卿の時と同じく、病が悪化しないようにこうされたのでしょう。大丈夫ですよ」
「そのときギュンターの魂は『お菊』に入ってたんだって。グリ江ちゃんの魂を入れるお人形、持ってきた方がいい?」
返答に困った少尉には「アニシナ様が戻ったら聞いてみましょう。ああ、氷が溶け出していますね、取ってきますので側にいてあげていただけますか」としか言えなかった。

給仕長に頼み込んで室から出してもらった氷を持って戻る途中、アニシナの部屋に向かっているフォンクライスト卿ギーゼラに追いついた。
「よろしいでしょうか、フォンクライスト卿」
「ギーゼラでかまいません、少尉。ああ、氷ですね」
「その、既にグレタ姫がいらしていますが……ずいぶんとお腹立ちのようです」
「そうですか。何しろ義父があのようにしてしまったので子供に見せては……と近づかないようにお願いしていたのです」
人通りのない廊下でひそめた声が語る事の次第は少尉の心を寒くした。

「ねっ、グリ江ちゃんは直る? 直るよね?」
「ええ、もちろんですとも。ただ、時間がかかるでしょうから急かさないでくださいね」
船内で応急処置した足の傷を検めながら、今どういう状態になっているかを説明しつつ薬を塗って包帯を替え、「骨は繋がったようですね。負担をかけないように注意しながら筋肉を元に戻すために歩行訓練を始めてもよさそうです。それからこちらは……」と胸の傷に目をやった。
鋭い剣先やナイフならこうはならない。もっと傷は小さく周囲はきれいだったろう。砕けた木片は確かに鋭かったようだが皮膚と胸筋を貫いて心臓までには至らず、骨に当たって周囲の皮膚を引き裂き、大きな傷となっていた。
「縫わなかったのですか」
「フォンヴォルテール卿から預けられてすぐに義父がこのようにしてしまったので、機会を逸してしまいました。皮膚は柔らかくないときれいに縫えませんし……この辺りは凍傷になってしまったので切り取るしかありませんね」
「ねぇ、本当に取っちゃうの?」、気味悪そうに言うグレタ姫に「姫さま、この間、怪我をしてかさぶたができましたよね。 そして、かさぶたが取れた下から新しくてきれいな皮膚が出てきたでしょ? それと同じなんですよ」
グレタはまだ不安そうな表情だったが、「教えてくれてありがとう」と素直に言った。
「ところで姫さま、学校からいただいた課題はお済みですか? グリエが目を覚まして、自分の側にいて勉強していなかったと知ったらがっかりしますよ」
「陛下と閣下もがっかりするでしょうね」
「もぅ〜二人ともぉ〜!!」
クスクスと笑い始めたグレタは「明日、また来るね。グリ江ちゃん」の声を残し、二人の大人を笑顔にして部屋を後にした。

「さて、この後私はどうすれば良いでしょうか」
「足の傷は治りつつありますから冷やしすぎないよう包帯を巻いておいてください。交換する時にはこの薬も塗ってください。皮膚がしっかりしてきたら塗り薬は必要ありません。胸については解凍したらまたお教えいたします」
「よろしくお願いいたします。なにしろ医学については軍で基礎を習っただけですので」
「実を言うと肉体的な問題はもうほとんどないのです。一番の問題は呼び掛けにも魂が答えないことなのです」
「優秀な癒し手のあなたが語りかけても、ですか」
「ええ。ですから、アニシナ様のお力を借りることになってしまって、本当に……口惜しいこと」
最後の言葉の対象が自分の手に余ることよりアニシナに向けられたように感じた少尉はただ眉をハの字にした。女性たちの問題に直面した男性としては賢明な反応だといえよう。

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