約束どおりやってきて縫合を済ませたギーゼラが帰ると、部屋は再び紙の擦れる音やペンを走らす音だけとなった。夕刻あたり、「んっ」という小さな声とともに手足を動かす音が聞こえ始め、灯りを持った少尉が見守る中、金にも見えるオレンジのまつげが揺れ始めた。
開かれた青い瞳は戸惑うようにゆっくり周囲を眺め、やがて少尉を見つけると眩しそうに目を細めて何か言いたげに唇を開き、だが音は無かった。
「無理せず、まずはのどを潤わせましょう」
胸元にタオルを敷くとベッドに腰を下ろした少尉は枕から頭を浮かせ、グラスを口に当ててゆっくりと傾けた。
一口二口飲んだヨザックはやっと「……これ」
やっと──いつも以上のハスキーな──声だが返答のあったこと、自分を覚えていたことに安心した少尉は明るく「すっきりするでしょ? 少しレモンを搾ったのです。お帰りなさい、グリエさん」と続けた。
「お久しぶりです……少尉」
会えてうれしいというよりどこか諦めたような声色、それには気づかないふりで「おなかがすいたでしょう。スープを持ってこさせましょう」
そして、食事が届くまでの間、食事中も言葉を発したのはほとんど少尉だけ。ヨザックはときたま相づちを打つくらいだが、それでもいやがることなく差し出したスプーンからスープを飲む姿は回復の兆しと思えた。

「あの……少尉、その……」
日頃のヨザックからは想像もできない口ごもった言い様になにかと尋ねると、「……トイレに」
「ほらっ用意してありますよ。尿瓶ですか、オマルですか。いずれ両親も必要になるでしょうから、ぜひあなたで練習させてください」
「トイレに連れて行ってください!! お願いですから」
「そうですか、残念です。とっても」
口ではそう言いながらも上掛けを捲って起きようとする体を支えた少尉は、上体が安定したことを確認してから怪我している右足を床に降ろした。
自力で立ち上がろうとしたヨザックは足だけでなくベッドヘッドを支えにした腕にも力が入らないことに唖然としている。
「さっ、私の肩に腕をまわして……それでは、立ちますよ」
ふらつくヨザックの腰を抱え、廊下の先のトイレまでそろりそろりと連れて行く。
「普通、尿瓶なんかより松葉杖を用意するもんだと思うますけどね」
「はははっ、確かに。そこまで気が回りませんでした」
「まったくぅ」
(ほとんど飲まず食わずで1ヶ月近くも寝たきり、普通の人ならこんな風にいきなり歩いたりできませんよ。本当にあなたは強健な体をお持ちだ)
部屋に戻るとアニシナが待っていた。

「どこに行っていたのです!?」
「はい、トイレに」
「ちゃんと用意してあったのにまったく無駄なことを。オスカー、こちらに。ああ、グリエに用はありません、ベッドに戻りなさい」言うことだけ言うと実験室に戻ってしまった。
ヨザックがベッドに戻る手伝いを終えた少尉が実験室に顔を出すと、アニシナは「そこにお座りなさい」と椅子を示した。さまざまなランプやコードがついたその椅子に少尉は見覚えがあった。
(幼い日、命じられるまま座った私はその後しばらく、アニシナ様から相手にされなかった)
「あっ、アニシナ様、私は……」だが、腕組みで見つめてくるアニシナに勝てるはずもない。
しかたなく腰掛けた少尉の体にコードが巻き付けられ、スイッチが入った。
「魔力:10、昔と変わりませんね」
(あの日は『これでは魔力がないのと変わらないではありませんか。オスカー、あなたは私の役には立ちません!!』と続けたが)
「やはりこれに補助魔力装置をつける必要がありますね」
「なんですか、それは」
「他人の夢に入り込む魔動装置『夢芝居』です。陛下に実験していただいた時は陛下の魔力で事足りましたが、今回はあなた用に改造しないと」
「陛下で実験などと……それで、なぜ私が使うのです?」
「グリエの体験をより正確に知るためです。正直に話したつもりでも無意識に言葉を選び、都合の悪いことを隠そうとするものです。完治できるかはともかく、問題があるということを認識し、それを客観的に観られるないようにならなくては次に進めません。陛下やグウェンダルではグリエに近すぎますし、ギュンターでは観たものを歪曲されかねません。そばにいてもグリエが眠ることのできる人物、魔力があって物事を正確に判断でき、口の堅いものがほかにいますか?」
(あの日以来、存在すら無視されていた私が非常勤助手程度に格上げされるまでどれだけ時間がかかったことか)
「あなたはいつでも実験できるようを体調を整えておきなさい」

翌朝から松葉杖の訓練を始めたヨザックは飲み込みも早く、その日の終わりには一人でトイレまで行けるようになった。とはいえ、体力と筋力の衰えは思った以上に酷く、壁を背に休みながらの往復でかなりの時間を要してだが。また、話しかければ答え、ときには冗談も混じる様子に、少尉にはヨザックが順調に回復ようにも感じられ、その一方で、ベッドに潜り込んで寝る姿は人を寄せ付けない傷ついた獣にも見えた。
「足の包帯はもういりませんね、胸のほうも……順調です」
「ねぇ、いくらDカップが羨ましいからって、そう揉まないでほしいわぁ」
「……グ、リ、エェェェェ」
「ギーゼラ様、冗談、冗談ですから……お気に留めずに。ありがとうございました、廊下までお送りいたします。ささっ、こちらへ」
無事、軍曹モードを回避した少尉がため息を漏らしながら「やり過ぎですよ、グリエさん」に、「うふふっ」含み笑いをもらす。
一方、アニシナは小型で目立たない補助魔力装置の開発に全力を注いでいた。既に魔力を蓄積することには成功していたが、超高速魔道艇ハヤオ君のようにどうしても大型で場所を取り、グリエに気づかれずに設置することは難しかったからだ。

数日もすると補助器具は松葉杖から杖へと変わり、体力・筋力を取り戻すべくヨザックはせっせと廊下を往復するようになった。
「グリエさん、そろそろお茶にしましょう」
「はぁ〜い、もう一往復したら」コツ、コツ、コツ……、遠ざかっていく杖の音の合間に元気な声が返ってきてくる。
部屋に戻ろうとする少尉に実験室から顔を出したアニシナが「どうですか?」と声をかけた。
「ご覧のとおり、順調に回復しております」
「それは見れば分かります。うなされたり、事の次第を口にするようなことがあるかと尋ねたのです」
「いえ、それは……」
「それなのにあなたは『順調に回復』というのですね」
コツ、コツ、コツ、「あれっ、アニシナ様。こりゃ珍しい、休憩ですか」
「元気そうですね、グリエ」
「ええ、おかげさまでぇ〜」コツ、コツ、コツ……
「あの様子は、例えて言えば『陛下にお声をかけていただいたギュンター状態』ですね」
(これ以上に的確な指摘はないだろう)妙に納得すると同時に、少尉は気を引き締め直した。

グリエの帰国から10日、海中に消えた魔王陛下一行の所在と無事を告げる手紙が血盟城にもたらされた。

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