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……揺れてる……
これは……波? ということは船?
なんで? どこに向かってるんだ?
ああ……なんか……はっきりしない……
どうなってるんだ……俺
俺って……誰だっけ?

敵を引き連れたままの撤退と乗船は慌ただしく、数隻の船がぶつからないよう離岸するには高度な技術と舵を取る船長たちの阿吽の呼吸が必要だった。

船上に待機していたギーゼラはタラップを登ってくる陛下と猊下の姿を見てホッと胸をなぜ降ろし、大シマロンにいるはずのウェラー卿とサイズモア船長が何事か話している光景と、続いて登ってくる担架から見えるオレンジの髪に驚いていた。
「ギーゼラさん!!」
「陛下、猊下。お怪我をされたと──」
「こっちは大丈夫、先にヨザックを頼む」
「そうはいきません」
呼び集めた部下たちにヨザックを診るよう指示を出したギーゼラは、半分強引に船室へと案内すると有無を言わさず問診・直診、即座にベッド行きを宣告した。
「なあ、俺たちは診たんだから次はヨザックを診てやってくれよ」
「その前に、グリエに何があったのか話してください。それによっては処置も異なってきますから」
「……僕も知りたい」
「村田? そうだな、あー、どこから話せばいいんだか……」
そう言いながら地下通路での出来事を語り始めた陛下は「でも、あれは幻想だったんだ」と話を締めくくった。
「思い込みでも体は傷つきます。ほとんど何も見えない状況では普通よりいっそう影響されるでしょう」
「グリエを見つけたイェルシーが痛めつけたのかもしれないぞ」
「ヴォルフ? まさか」
「やりかねないよ、なにしろゾンビ使いだ。いつ暗示が解けるか分からないより扱いやすいんじゃないかな……殺してしまった方がさ」
「村田まで……そんなこと」
消え入るような陛下の声に誰も応えられず、憶測でしか語れないもどかしさが誰の胸中にもあった。

ヨザックを診るためギーゼラが部屋を訪れてみると、扉の前に立つ警備に兵として主の安全が確保されているという安心感と、医師として患者を拘束する行為への嫌悪感に心が揺れた。
扉を開けると何もない部屋の床にヨザックが寝かされていた。
「これはどういうことです!! なぜベッドがないのですか!!」
「申し訳ありません、フォンクライスト卿。部屋には何も置かないようにとの艦長からの指示です」
「それでもマットレスと毛布ぐらい……。もういい、直接言います」
「どうぞお待ちを。艦長以下全員、ただいまはこの潮流から脱するため全力であたっているところです」
「そこを退きなさい!!」
「卿、我々も好き好んでこうしている訳ではありません。恐れているのです、もしグリエ殿が自分の所業に気づいたら……」
「……そういうことですか」
「ええ」
「確か、水兵たちのマットレスは藁束でしたね。カバーは外して中身だけを用意してください」
「畏まりました。直ちにお持ちいたします」

跪いたギーゼラは顔をしかめた。漂っていたのは既に血の臭いではなく、腐臭だった。
うつ伏せた体を仰向けにし、手首を取って心拍数を数える。
(32回、間違いなく動いているが……遅い)
続いて呼吸数。
(12回、睡眠時より少ない。これだけ遅く、そして少ないと目が覚めてもなんらかの障害が残るかもしれない)
乱れた髪を脇に寄せ、清潔な水で入念に目を洗い、周囲の皮膚に炎症を押さえる薬を塗り、目には同様の効能がある薬を点眼して包帯を巻き付けた。
靴を脱がせて右足のパンツを切り開き、その傷を検めると思わず「ああっ、なんてこと」と悲嘆の言葉を漏らした。
(ここにある道具では応急処置しかできない。でも、やるしかない)
既に腐り始めた肉片を切り取り、砕けた骨片を取り出し、縫えるところは縫い合わせた。
途中から藁束を持っていた兵たちは無言で処置かわ終わるのを待っていた。
処置が終わったヨザックを移してその額に手を乗せ、内なる魂に呼びかけたが一向に応えはなく、奥底しれぬ洞穴に呼びかけるように声は吸い込まれるだけだった。
(本当に堅く、閉じこもってしまっているのね。かわいそうに)
部屋を出る時、振り返ったギーゼラは声に出さず返事をしないグリエに呼びかけた。
(還ってきなさい、グリエ。陛下をこれ以上悲しませないで)

ギーゼラが重い足取りで貴賓室となった船長室に戻ると、陛下と猊下は着替えこそ済ませていたがまだベッドには入っておらず、しかし、それを咎める気にはなれなかった。
どう尋ねたらいいのか、どう答えたらいいのか。
逡巡する沈黙を破ったのは「生きているな」と問うヴォルフの言葉。
(これになら答えられる)「ええ、生きています」
不安そうな表情が一転、破顔する陛下に後ろめたさを、そして懸命に冷静さを保とうとしていることが見えてしまう猊下に困惑を覚えた。
「それで、もう気がついた? なんか言った? 傷の具合は? ねぇ、どうなんだ?」
矢継ぎ早の質問につい「まぁ、陛下」とは言ったものの、その後が続かない。
「ユーリ、少しはギーゼラにしゃべらせろ」
「あっ、うん。ごめん、ギーゼラさん」
「いいえ、陛下」
一呼吸置くと、「先ほど申し上げたようにグリエは生きています。ですが、まだ眠っております。次に、目にかかった薬は元々飲み薬ですから皮膚は大丈夫だと思います。ただ、眼球への影響を考えてしばらく強い光は避けた方がよいでしょう。足は……正直に申し上げて、酷い状態です。骨は折れ、皮膚や筋肉の裂傷が酷く、よくあれで歩けたものです」
ガチャ
普段、優雅な手つきでお茶を飲む猊下が持っていたカップを落とすように受け皿に置く音が室内に響いた。
「大丈夫か、村田」
「あっ、うん。ちょっと……疲れたかな」
「そうだよ、お前、食ってねぇし、寝てもないんだろ」
「猊下、どうぞ向かいの部屋をお使いください」

案内はいらないという猊下について部屋に入ったギーゼラは、ガウンを脱いでベッドに入ろうとしている背中に疑問を投げ掛けた。
「猊下。先ほどは陛下もいらっしゃいましたのでお尋ねしませんでしたが、陛下がたのご存知ないところで……グリエに何かされましたか」
動作を止め、緊張した声で「具体的には、なにを?」という猊下は、やはり何かを隠しているように思えた。
「いえ、その、猊下のお振るまいがいつもと違うように感じましたので」
「なんにも……なかったよ。おやすみ」
それだけ言うとベッドに潜り込んだ村田は背を向けたまま、ギーゼラが出て行くのを待っているようだ。
「失礼いたしました。外にダカスコスを残しておきますので、何かありましたらお呼びください」
部屋を出て他の者たちを診に行く途中も猊下のことが気にかかっていた。
(カロリアでも城でも、陛下を除けば一番親しいかったのはグリエ。ショック……だけかしら。グリエが猊下の意に沿わぬことをするとも思えないけれど、その時のグリエはグリエではなかったし……、本当に何もなかったのかしら)

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