幕間のことだった。グリエさんとフリッツさんはロビーでほかのお客様と歓談中、私は化粧室からボックス席に戻ると、少尉と奥様の話が聞こえてしまった。
「ハナさんはすてきな人だね。さすがはグリエさんが選んだ人だ」
「私は……心配」
「なんだって? なんの心配があるというんだね?」
「あなたはやっぱり気付いていないのね。どこがってことではないのだけれど……あの方に似ているように感じるの。だから、グリエさんはハナさん自身が好きなのか、それともハナさんにあの方を重ねているのか……」
「お前は考えすぎだよ」
「ねえ、あなた。あの方を連れて帰ってくるまで、グリエさんはどれくらい待ったかしら? それに、あの方が亡くなった後、お付き合いしている方を紹介してくれたのは今晩が初めてよ。グリエさんにとってあの方はそういう方なの。私、ハナさんが好きだわ。だからこそ心配しているの」
私は扉の外で動けずにいたが、なんとなくホッとしてもいた。
これまでにも好意を向けてくれた人もいたし、お付き合いもしてきた。それらの経験と比べるとグリエさんはなんとなく違っていた。好意を寄せる相手が拒否していないにもかかわらず、慎重すぎる態度に多少の疑惑を感じていた。(そうか、そういうことか)
「ハナさん、どうかしましたか?」
フリッツさんの声に我を取り戻した私は「あっ、いいえ。あまりに素晴らしい舞台なので、まだ夢心地で……」とごまかした。
「確かに。あの父でさえ今日の舞台は素晴らしいって云ってますからね。あっ、ベルだ。グリエさんもすぐに戻ってくるでしょう。さっ、入りましょう」

慰めるように、ウルリーケ様は無言でそっと私の手に手を重ねた。

舞台が終わって少尉ご一家とロビーで歓談し、何事もないようにご一家の馬車を見送った。何も驚くことはない、私的なことは生徒に見せない『教師』に必要な特技だ。それに、この感情は落胆でも不安でも悲哀でもないし、責めを負う相手はご一家ではない。
馬車が走り出すとグリエさんが言った。「ハナさん、なにかありましたか? どうも怒っているように感じるんですけど」
誰でも気付くだろう、私は自分の感情を隠さなかった。
「どういうおつもりで少尉ご一家に私を紹介したのですか。嘘偽りなく、単刀直入にお答えください」、不思議なもので、怒りが高まれば高まるほど冷静になっていく。
彼はそれまでの人の良さそうな微笑みを止め、厳しい顔つきに変わった。こういう表情は初めて見る。
「見てもらいたいものがあるんで、行き先を変えますね」

馬車は旧市街近くの住宅街、こじんまりした家の前で止まった。コックを開いて灯ったガスランプに照らされた部屋は、外出がちな独身者のものとは思えない、シンプルだが質のよい家具やカーテンなど心地よさと寛ぎを第一に感じさせる居間だった。
ぐるっと見回すと暖炉の上に一枚の絵。今より若い彼と白髪の老人が、まるで子供のように屈託のない、あけっぴろげな笑顔で笑い合っている。この人が奥様の言った『あの方』。
「紹介します。彼は……ムラタァ ケン」
この絵のグリエさんは今よりずいぶん若い。とすると、この『ムラタァ ケン』は人間で、すでに亡くなっているのだろう。それでも、グリエさんの口調、声色、そして絵を……いえ、『ムラタァ ケン』に向けられた、熱のこもった視線。誰が見ても見間違いなどしない。彼はまだこの人を愛しているのだ。
「俺の『家族』です」
座り心地の良いソファに腰掛け、品の良いティーセットに香り高い紅茶を前に、彼はこれまでの人生を──巷で噂されている内容よりは詳しく、でもかいつまんで──話してくれた。
「俺は自覚してなかったけど、ずっと家族の輪ってものに入りたかったんだと思う」、穏やかな視線で見上げながら続けた。「彼は俺にとって父であり、母であり、ちょっと生意気な子供でもあったんだ」

「そう聞いた瞬間、私の怒りは消えました。だって、いくら愛し合っていても家族に太刀打ちできないでしょ?」
私の問いかけにウルリーケ様は少し困った顔をしている。そうか、この方もこれまでの人生で『家族』とともに過ごした時間はものすごく少なかったのだ。

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